コラボレーション

「おち」についての一考察

関西の方に住んでいらっしゃる友達から、若手芸人が出ている番組の感想として
「最近の芸人さんはおちが弱い気がするんだけど」
との指摘を受けましたので、今回はこの点について分析を行いたいと思います。
個人的な意見ですがそもそも「おち」って発想は「漫才」からだと思うんです。
というのは、「コント」と「漫才」の潜在的な組み立ての違いがあるからでして。

「コント」とは、シチュエーションだと前のテキストに書きましたが、シチュエーションである以上時間軸が存在し、一つの時間の終了がイコール、コントの終了になるので、
「終らせ方」に「おち」を持っていく必要が無いんです。
勿論、「コント」でも「おち」で終らせる方法がるんですがこれについては後述します。

一方「漫才」
導入部→ネタ→転換部→ネタ→転換部→ネタ・・・
と進行していきます。つまり、時間軸が無く、転換部によって、ネタを連続させ、どこで「終らせるか」がポイントになるんです。
その仕掛けが「おち」なんです。

さてさて、他からの質問で「ボケ」と「おち」の違いが分からないと質問も有ったのでここで説明しますと
「ボケ」とは、ネタの中で話を話題の中心からずらそうとする台詞・動きなど
ですから
「つっこみ」とは、ボケが、ずらした話を元に戻そうとする台詞・動きなど
で、「おち」とは何かというと
話が始まった時点で定められている「ゴール」
なのです。
少し変えて言うと、「おち」を効いた時に振り返ってネタの様々な所にこの「おち」を予感させるものが本来の「おち」なんだと思うんです。
つまり、「漫才」がただのたい話と違うのはネタの合間合間に「おち」への伏線を張っているからであり、結果としてムダに見えた話が実は削ぎ落とされている物であり、練りに練られた物だからなのです。
個人的にはこうして、全てのパーツが「おち」に向かっていくタイプを「典型的漫才」と呼んでいます。
この、典型的の問題点は全てのパーツが「おち」に向かってるがゆえに途中でおちが読めてしまう可能性が高いということです。
そこで、全てのパーツを「おち」に向かわせるのではなく、ミスリードさせていく
一部のみを強調して「おち」向かわせる方法がありこれを「非典型的漫才」と呼んでいます。
この、「非典型的漫才」の弱点こそ
「おち」が分かりにくい
なのです。これは、典型のように合理的な推理から「おち」が読めるわけではなく、むしろ、言葉の響きなどから芸人のセンスによって「おち」をチョイスしていくわけで、
伏線が甘かったり、トラップになっている伏線の方が充実してしまったりしやすいのです。
この、「非典型的漫才」はシュールさを求める場合にはとても便利ですし、また、「コント」にも導入が比較的簡単に出来ますので、最近のネタ番組を見ていますと
圧倒的にこの「非典型的」のネタが多いのが実情です。

ですから、冒頭の質問はとても的を得た質問でして
でも、「コント」に「おち」がどうこうというのはもうちょっと自由度が高いのであまり的確じゃないのですが、もし、「漫才」を観て「おち」が弱いのだとするとそれは、そのまま、ネタの完成度が低いということになるんですよね。



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